銭湯ハンコ作家 廣瀬十四三さん
北千住と言わないの?から始まった
お気に入りの場所を聞くと、次々に名前が挙がる。千住の銭湯やカフェ、区外の公園やスーパー。ハンコ作家というと勝手にインドア派をイメージしてしまうが、行動範囲の広さから伸びやかな廣瀬さんの千住ライフの楽しみ方が伝わってくる。
千住東のマンションは夫婦の自宅兼、廣瀬さんの仕事場。最初の3年間、住んでいた国道4号線沿いの寿町のマンションより狭かったが、広いバルコニーと近くの桜並木が気に入って移った。車もあまり通らず静かすぎて、引っ越してきた当初は逆に眠れなかったという。
広々としたバルコニーからは、荒川土手、細い路地、桜並木など街が一望できるだけでなく、スカイツリーも見える。以前は年に数回、仲間を招いて食事を楽しんだ。「マルイと大学が出来る前は花火が見えたので、友達を呼んでバーベキューとかやっていたんですけど、全然見えなくなっちゃった」。
今はたまに気候がいい日に、夫婦で青空と風の開放感を味わう特等席に変わる。「外飯(そとめし)するか、というと、うちではバルコニーです。テーブル出して、台所から電気引いて、たこ焼きやったり」。
街の気配と自然を感じながら過ごすひと時は、気取らない贅沢。世界屈指の乗降客数を誇るターミナル駅を抱えながら、ほんの少し離れるだけで庶民の暮らしを感じる街並みが広がっている。そんな千住らしさを感じられる。
廣瀬さんの生まれは神奈川県横浜市。結婚を機に足立区に移り、平成9年から千住に。千住を選んだのは「カミさんが千住四丁目生まれ育ちなので」。
住み始めるまで、千住についての知識は皆無。横浜から見たら、ほぼ「埼玉?」という位置にある足立区は縁遠い場所に違いない。「こっちに来て銭湯がいっぱいあることを知ったし、古い家もいっぱいあって、楽しい街並みだなと思いました」。
そんな中、ある雑誌との運命的な出会いが訪れる。千住の地域グループ「千住・町・元気・探険隊」が発行していた「町雑誌千住」(1996 年から20号まで発行、2015年にLast号発行)。千住の店や人、銭湯、祭り、歴史など、地域に密着した話題が満載で、興味を引かれた。
「何にも知らないで千住に来た人間としては、街のことがわかる内容で、面白かった。読んでいるうちに、いろいろ書いてみたいなと思って」。最初に投稿したのは、外から千住に来た人なら、きっと誰でも一度は思ったことのある、あの謎について。
「なんでこの辺の人は、北千住のことを千住と言うのかなと思っていたんですよ。あ、千住という町なんだ、北千住は駅名だけなんだ、と後から知って。例えば銀行も千住支店だし、消防署も警察署も千住なんですよね。じゃあ、駅名も千住にした方がいいんじゃない、みたいな文章を書いて投稿しました」。
今よりおおらかだった当時、編集者の個人宅に「町雑誌千住編集室」の看板が出ていたので、郵便受けに直接投函した。「勝手に書いて持って行っているうちに、メンバーにいつの間にか引きずりこまれました(笑)。7号ぐらいだったかな」。
誘われるまま加わってみると、雑誌以外にも蔵の研究や史跡の調査などもやっていることがわかり、廣瀬さんも銭湯や蔵を調べて記事を執筆。いつしか、どっぷり千住のディープな住人に。企画の一環で千住の銭湯を巡るイベントをした時に、銭湯研究第一人者の町田忍さんと知り合い、以来、付き合いが続いている。
銭湯を選ぶ決め手は相性
銭湯は廣瀬さんにとって、子どものころから馴染みのある場所。小学2年生まで住んでいた家に風呂がなく、銭湯は生活の一部だった。実家が風呂付きの新しい団地に引っ越してからは、周りに銭湯がなかったこともあってしばらくは遠ざかっていたが、大人になってから銭湯通いを再開。
「どこかに行った時には銭湯に入りたくなったし、20代後半から6年間、横浜市鶴見区で一人暮らしをしていた時も、小さいユニットバスはあったけど入る気にならなくて、地図を買ってきて銭湯を探して入りに行っていました」。もちろん、千住の銭湯は熟知しているはず、と思って聞くと、「足立区の銭湯は全て行きました」。淡々とした応えから、好きなものへの情熱とバイタリティが溢れ出る。
現在、千住の銭湯は7軒。そのうちの2軒、大和湯と美登利湯の煙突が廣瀬さんの自宅の窓から見えていた。昭和の感じられる貴重な風景だった。ところが、それに異変が起きた。2019年9月、台風19号が都内を襲った。
前年の大阪での台風では、被害が大きく廃業してしまった銭湯も多い。それを知っていた廣瀬さんも気が気ではなかった。「大丈夫かなぁと思って、台風が過ぎた真夜中に窓から見たら、美登利湯の煙突が見えないんですよ。暗いから見えないのかなぁとも思ったんですが、翌朝6時に実際に見に行ったら煙突が倒れていて……」。
衝撃の光景を目の当たりにして、すぐにタカラ湯さんに連絡。ニコニコ湯、梅の湯のご主人とともに3人が駆け付けてきたそうだ。数カ月の休業で修理を終え、美登利湯は無事再開。小さくなった煙突は窓からは見えなくなったが、銭湯がなくならずに済んだことを喜ぶ。
足立区外でも気に入った銭湯があれば、多少の距離はものともせず入りに行く。湯どんぶり栄湯(台東区)、梅の湯(荒川区)は廣瀬さんのホームの一部だ。千住でよく利用するのは、大和湯、梅の湯、タカラ湯。決め手はお湯や設備はもちろんですが、「相性ですね。女将さんやご主人との相性がいい感じだと、常連さんもいい感じなんですよね」。
大和湯は2013年にリニューアルし、宮造りの昔ながらの外観はそのまま、中はレトロモダンに生まれ変わった。井戸水を薪で沸かした湯や強めのジェットバス、変わり湯の半露天風呂など、癒しポイントは多々あるが、廣瀬さんのイチオシは女将さんの笑顔。フロントでやさしく出迎えてもらった時の癒し効果は、間違いなし。「うちのバルコニーのラティス(目隠し用の柵)が古くなったので、持って行って燃料にしてもらったこともあります」。廣瀬さんのハンコ一覧が置いてある貴重な銭湯でもある。
北千住駅東口すぐの梅の湯も、宮造りの外観に、湯船は2つだけのシンプルな造りだが、そこがいいという人も多い。湯が熱めなことで知られ、使用している井戸水の水質の良さで定評がある。廣瀬さんが寿町に住んでいた時から通っていて、ご主人の梅澤幹夫さんとは付き合いも長い。
「会社を辞めた時に、辞めたんですよと話をしたら、『大変だね』とオロナミンCをおごってくれました」。パンチパーマ風の髪型の下の、ほわんとした湯気のような笑顔。そんなお客さんへの思いやり溢れるご主人の意外な一面に、ある時、廣瀬さんは遭遇することに。
「お祭りの時にお神輿の上に乗って、先導していたんですよ。ええっ、あの穏やかな梅澤さんがって、ビックリしました」。以前、お祭りの日は忙しいと話していた梅澤さん。祭りに血が騒ぐのは、さすが、千住っ子というところだろう。
お風呂に入るだけでなく、ハンコ作家としてもつながりが深いのが、タカラ湯。
ご主人の松本康一さんなくては、今の「ハンコ作家としぞー」はなかったかもない。詳しくはこの後のハンコの話で記すが、廣瀬さんと松本さんの縁が深さが感じられたエピソードをひとつ。
P-KUN CAFEでの取材後、廣瀬さんと写真撮影のためタカラ湯へ行った時のこと。アポなしで開店時間前だったので、外観だけでも撮影できればと思っていたら、店前に到着するとシャッターの向こうから物音が。なんと、偶然ロビーに忘れ物を取りに来ていたご主人が、快く中に招いてくださったのだ。
ロビーに入ると、バーンと出迎えてくれる「仮面ライダーリバイス」のポスター。タカラ湯は、2021年9月から放送されている「仮面ライダーリバイス」に登場する「しあわせ湯」のロケ地で、特撮ファンからの視線も熱い。
「この間、九州から来たっていう人もいたよ」と松本さんがにこやかに教えてくれる。子どもに喜んでもらいたいと、フロントにも仮面ライダーグッズが並んでいるのが、ちょっと不思議で微笑ましい。
この、仮面ライダーリバイス、実は廣瀬さんも一役買っている。番組からの依頼で「しあわせ湯」のスタンプをデザイン。それがドラマのオープニングに、登場しているのだ。廣瀬さんによると写っているのは時間にして0・5秒だが、美術協力として「銭湯ハンコ作家としぞー」の名がしっかりテロップに入っている。
「キングオブ縁側」と称される日本庭園を、まだお客さんのいない脱衣場で堪能しながら、「庭に松本さんの人柄が出てますよね」と廣瀬さんがしみじみ。
「松本さん、私が行くとお風呂に一緒に入ってくれるんですよ」と後でこっそり教えてくれた。
ハンコの楽しさはプチ印刷
駅、動物園や博物館、旅先の観光地――スタンプがあると、ついつい押したくなるのが人情。上手く押せると嬉しくなって、集めたら何かいいことがあるとなったら、頑張ってコンプリートしたくなってくる。
そんなスタンプ欲を満たしてくれるスタンプラリーが銭湯にもあるが、廣瀬さんは、依頼を受けた銭湯のスタンプをデザインしている。それぞれの店の個性と特徴を3cm四方ほどの世界にギュッと閉じ込めた「としぞーハンコ」は、懐かしかわいい。
廣瀬さんのハンコ制作は、10年以上前、趣味の消しゴムハンコから始まった。
会社を辞め、仕事として請け負っている今は、消しゴムの耐久性や制作時間の関係から、デザインしたものをハンコ屋でスタンプに加工している。
「消しゴムハンコの第一人者、ナンシー関さんが好きだったんです。ハンコも文章も面白くて憧れていて。急逝後の回顧展で圧倒されたんです。自分でも作ってみようと思った時に、銭湯が好きだったので銭湯関係の人を彫ってみようかなと」。
記念すべき第1号は、町雑誌千住の時に知り合った銭湯研究家の町田忍さん。初作品の出来映えの良し悪しが自分では判断できず、町田さん本人に打ち明けたのは1年近く経ってから。恐る恐る「こんなの作っているんですよ」と見せたところ大絶賛をもらい、町田さんだけで3種類ほど作った。町田さんは今でも手紙や著書に、廣瀬さん作の似顔絵ハンコをサイン代わりに押していて、町田さんの一部になっているのだろう。
銭湯のご主人の似顔絵ハンコを「勝手に作って、勝手にプレゼント」しているうちに、タカラ湯の松本さんから声がかかり、2013年にタカラ湯のロビーで展示会を開催。たまたま来ていた朝日新聞の記者の目に留まり、記事になったことから評判が広がっていった。
千住旭町の「アートスペースココノカ」(現在は「ベジモア」)で学生たちが開いた銭湯展で招待展示した際は、見に来ていたみどり湯(自由が丘)の女将さんに見込まれ、みどり湯併設のギャラリーで毎年展示会を開いている。まるで千住と銭湯が、人と人の縁を繋いでいっているようだ。
「ハンコが面白いと思うのは、簡単な印刷を自分でできるということ。それと、押した感触。子どもの頃の芋ハンコとか。押して離した時に現れる陰影も好きです。消しゴムハンコは手軽にポンポン押せるのが楽しいんですよ」。
東京都の無期限のスタンプラリーは「銭湯お遍路」という。都内の銭湯でお遍路帳(銭湯マップ)を買って、入浴したお店でスタンプを押してもらう。1つ、また1つと増えていく喜びと、見返すたびに「あのお風呂は○○が素敵だったなぁ」と思い出してはまた癒されるという優れものだ。
この銭湯スタンプ、以前は店名と番号が入ってるだけの味気ないものだった。「文字だけじゃつまらないな」と、廣瀬さんが都内3軒のハンコを試しに作って東京都浴場組合に持ち込んだのをきっかけに、独自のデザインを取り入れる銭湯が増加。
会社員を辞めて仕事をどうしようか考えていた廣瀬さんのもとにも、制作依頼が舞い込むようになった。「今考えると無謀なんですけど、会社を辞めるときハンコを仕事にするとは思っていなくて、何も考えていなかったんですよ」。
都内では文京区、荒川区、渋谷区、港区、八王子・町田など111軒。鹿児島県、福岡県からも含めると250軒近くになる。最近では、オーストラリアで開かれた銭湯展で来場者が押せるように、架空の「シドニー湯」のハンコを制作して、喜ばれたというトピックも。としぞーハンコは海外デビューも果たした。
千住のとしぞー銭湯ハンコも集めたいところだが、あるのはタカラ湯、大和湯、大黒湯(廃業)の3軒のみ。「意外と足立区は少ないんですよ。依頼されていないので(笑)」とのこと。
「今後は千住という切り口で何かできないかな、とちょっと思いますね」
千住のまちと消しゴムハンコ――最高に相性のいいに決まっている。
新しいスーパーを見つけるのが面白い
「千住の魅力の一つは自転車でどこにでも行けること」と廣瀬さん。坂がなく、自転車なら狭い路地でもスイスイ行ける。そして、なんといっても千住を取り囲むように流れる荒川、隅田川。川沿いに土手を走れば、電車やバスを使うより自由に楽に移動できる。健康にもいいし、まさに一石二鳥だ。
「以前は多摩川沿いでも走っていました。自転車でも足でも。マラソン大会にも出たりしていました。河口湖マラソンに2回出て、マラソンは体に悪いということがわかりました。10キロぐらいは普通の人は走れるんです。フルになると足腰、膝に悪いなと」。
今は毎日のように愛車のロードバイクに乗って、千住だけでなく千住新橋を渡った足立・梅田地域や葛飾区、隅田川を超えて墨田区、荒川区、台東区にも出かけていく。日課のスーパーは近所の決まった店ではなく、いろいろと冒険するのが廣瀬さん流だ。
「スーパーって、一見同じようでラインナップが違っていたりするんですよ。こんなの見たことないな、という商品があったりしますね。プライベートブランドにしても、いろいろあるし。新しいスーパーを開拓してくのが面白いですね」。
「五反野のサミットは雰囲気がいいですよね。頑張っているというか、お惣菜も変わっているし、庶民のいろんなニーズに沿っている。シャケの小さい切り身が3つ入りで売っていて、お弁当用かなとか」。
鐘ヶ淵にあるベルクスや新田のベルクもお気に入り。新田は電車やバスで行こうとすると遠く感じるが、自転車なら苦にならない。「20~30分ぐらいかかりますが、土手を走っていけば着くので。そこが土手のいいところです」。
千住のスーパーならここ、と挙げるのは、千住龍田町の大門商店街にある「生鮮市場ヤオシチ」。「完全にラインナップが千住の道の駅。あんなスーパー、他にないですね。お惣菜がすごい。あと、全国から取り寄せているっぽい野菜が並んでいたり、なぜか野菜の横にジュークボックスがでーんとあったり」(笑)。
テレビ東京の「アド街ック天国」でも紹介されていたが、番組スタッフに紹介したのは、実は廣瀬さん。「仲町の家」にいた時に、たまたま来訪したアド街のスタッフにオススメの店を聞かれて教えたという。
「大門商店街は面白いですね。帝京科学大学が出来てから、やっぱり若い人が通るようになって人の流れが変わってきたんじゃないですかね。若者向けのカフェTama Coffee Roasterが出来たり、雰囲気が面白くなりました」。
商店街が元気なまち
「北千住の魅力ってよく聞かれるけど、何だろうなぁ。いろいろありますよね。電車は便利だし、そこそこ栄えているし、店も商店街もいっぱいあるし。やっぱり商店街がないとつまんないですよね。お店に元気があるとこが好きなんです。欲を言えば、魚屋、八百屋、果物屋とか個人店が元気でやってると嬉しいけど」。
せっかくの商店街が、限られた業種の店ばかりになりつつあるのを残念がる一方で、期待もある。「北千住は面白いところで、こんな大きなターミナル駅なのに駅の近くに空き家がいっぱい残っていて、使われていない家がある。使い方次第ではもっと面白くなりますよね。昨日、古民家利活用のミーティングをzoomで聞いていたんですが、そういう動きが活発になってきたのを感じます」。
空き家を活用して路地に古民家を改装したカフェや活動の場、たとえば「家劇場」や「KiKi北千住」など、若い人たちによって新しい息吹が立ち上がって増えていくのを、心から楽しみにしている。
廣瀬さんに街の人たちのことも聞いてみると、こんなエピソードが返ってきた。
「マンションの理事長をやっていた時に、東二丁目の理事会に顔を出したんですか、みんな気さくな方でいっしょにカラオケまでやっちゃいました。昔のカラオケなので、本に載っていても入っていない曲が多くて、すごかったです」。
千住の魅力を挙げるなら、銭湯、商店街、古民家、土手――そしてやっぱり人なのかもしれない。
番外編・自転車で隅田川沿いを行ってみた
12月10日、撮影のために廣瀬さんが普段よく行く区外のスポットに同行させてもらった。
まずは隅田川にかかる汐入大橋をわたって、汐入公園へ。虫や小さな生き物たちのために、整備しすぎずあえて適度に草むらを残した公園は、川辺の開放感もあって、とにかく気持ちがいい。いつまでものんびり座っていたくなるほど。荒川区民が少しうらやましくなる。「毎日来ていますよ」という廣瀬さんの言葉もうなずける。
正面にスカイツリーを見ながらそのまま川沿いに自転車を走らせると、あっという間にビール会社のあの黄金のオブジェが現れる。浅草がこんなに近いとは。電車より近い印象に驚く。
大通り沿いに進むと、廣瀬さん御用達のオーケーストア橋場店が。「ピザが焼き立てで安い。食料品から日用品まで、安くて品ぞろえがいい」のがお気に入りのポイント。
橋を渡って隅田公園とオシャレなリバーフロントを横目に、墨田区の街中へ。やがて本所吾妻橋駅の交差点に、自転車ショップ「CYCLES BAREN」がある。間口は狭いが、知る人ぞ知る品質の確かなロードバイクが、壁や天井にまで並んでいる。
廣瀬さんが相棒のアメリカ製のロードバイク「キャノンデール」を購入したのが、この店。以来27年、メンテナンスを任せている。
今でこそロードバイクは人気だが、当時日本ではキャノンデールを扱っている店はほとんどなく、知り合いの旦那さんがやっているこの店でようやく出会った。「当時10万ちょっとしたんですよ。結構思い切ったなぁと思ったんですけど、いまだに問題なく乗れていますしね」。
これまでに大きいメンテナンスを3回。「もう1台買えるぐらいのメンテナンス料がかかっている」が、かけがえのない相棒と末永く付き合っていくつもりでいる。
墨田区をさらに進み、両国のその先へ行ったところに、廣瀬さんが時々訪れている「松の湯」の煙突が見えてくる。寄り道しなければ自転車で30分強といったところだ。宮造りのこぢんまりとした銭湯で、なんと年中無休。
暖簾をくぐるかくぐらないかのうちに、ロビーから「いらっしゃいませ~!」と明るい声とともに若い女将さんが笑顔で出迎えてくれた。廣瀬さんだからというわけではなく、フロント前に立って、ひっきりなしにやってくるお客さんに応対しているのだ。
浴室も決して広くはないが数種類の浴槽があり、なんといってもウエルカムな雰囲気があたたかく、地元の常連の中に入っても居心地がいいのが嬉しい。女将さんの人柄だろう。ロビーでは湯上りの常連のお年寄りたちが、女将さんに見守られながら、長年の友達のように会話に花を咲かせてくつろいでいる。廣瀬さんがわざわざお風呂に入りに来る気持ちがわかる。
カウンターの上に、廣瀬さんデザインの「松の湯」タオルと缶バッジが販売されているのを発見。牛乳瓶のフタをモチーフにした缶バッジは、男女を問わず人気の「としぞーブランド」の定番だ。
最近はハンコだけでなく、タオル、バッジ、手ぬぐい、Tシャツなどの銭湯グッズのデザインの依頼が増えていて、廣瀬さんの世界は広がっている。
帰り際、繁盛ぶりに驚いたことを女将さんに話すと、「今日は65歳以上無料の日だから、いつもより多いんですよ」と種明かし。
廣瀬さんが、目を輝かせる。
「じゃあ、私もあと数年したらタダで入れる?」
「あー、墨田区が区民限定でやってるサービスだから…」
「残念…。引っ越してこようかな」
そんなやり取りに、笑いがこぼれる。
すっかり日が落ちた道を戻る。途中、川沿いで自転車を停めて、夕暮れに灯るスカイツリーを振り返る。
千住から土手伝いの毎日の自転車旅、確かにこれはクセになりそうだ。
取材:2021年11月28日、12月10日
写真:伊澤直久
文 :市川和美
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