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【story1】紙問屋の家の朝ごはん

下村康雄さん 86歳

千住暮らし【ストーリー1】写真1



具だくさんの味噌汁から朝が始まる

千住暮らし【ストーリー1】写真2

朝は7時前後に起きて、体温と血圧を計ってから、朝の食事の支度をする。


「具だくさんの味噌汁を作って、おつゆよりかは実を食べる。お汁は塩分も多いので捨てることが多いね。実はだいたい決まってて、豆腐、玉ねぎ、わかめ、そのほかに残った野菜、じゃがいもとか白菜とか葉っぱもの。味噌汁は作り置きすることはなく、毎朝作ってるよ。それから、卵。基本的には目玉焼きで、ときどきスクランブルにしたり。そこに、ピーマン、椎茸、玉ねぎなんか、そのときにある野菜を炒めてつけてね。あと、さつま揚げとか、イワシの干し物とかタラコ、アジの干し物をつけて、それをおかずにして、ご飯、半膳くらいを食べる」。作り始めて食べ終わるまでに小一時間。

千住暮らし【ストーリー1】写真3

下村さんの「千住暮らしは」と、話を聞き始めて数分で、下村さんの口から飛び出してきた朝の下村家の豊かさに驚いた。昭和ヒトケタ世代の「男性」でありながら、と言うのは偏見かもしれないが、柔軟に人生の変化を受け入れ、料理も掃除もきちんとされている自然体な暮らしぶりがいいなあと思う。3年前に患った大病と持病があって、健康管理をしっかりしながら、お父様から受け継いだ「紙問屋」だった家で、ひとり暮らしをされている。

千住暮らし【ストーリー1】写真4

特に運動をしているわけではないが、日々の買い物と、家のまわりに置いた植木の水やりとメダカの世話、週に一度のデイサービス、それに月に2〜3度、誘ってくれる友達がいてゴルフを楽しむ。「運動といえばそれが運動かな」。

千住暮らし【ストーリー1】写真5

紙問屋だった家


古紙の流通は江戸時代から、農業地帯と江戸の中間に位置する千住で盛んな産業のひとつだった。今も江戸時代に紙問屋を営んだ建物を維持されているのが、旧日光街道沿い、千住4丁目の横山家。同じく旧日光街道に面する下村家(屋号:木屋)は、関東大震災直後に建て直された家だが、それ以前の建築をほぼ踏襲して建てられたと伝えられていて、重厚で美しい店先が、今も印象的な家だ。20年くらい前に2階の床など大規模な修繕をした。そのとき、天井や壁などの「板の洗い」も行ったので、今も明るく美しい木目が見られる。あたたかな空気が流れる空間だ。

千住暮らし【ストーリー1】写真6

下村家に伝わる古文書(地漉紙問屋御冥加永願書/1859年)によると、当時千住宿には地漉紙問屋が12軒あったことがわかるという。木屋は、3丁目の三木新兵衛が営んだ「木屋」本家より分家して三木七兵衛と名乗り「中木屋(なかきや)」と呼ばれ、一族が千住で紙問屋を営んだ。


お父様がご存命のころは、お客様があると、上がりかまちに腰掛けて、お父様と火鉢を挟んで話していた。歳をとると「親父は日がな一日、ここに座って外を見ていた」。帳場だった店先からは、ガラスの引き戸をはさんで旧日光街道の、今でも意外に多い人の往来がよく見える。家の中でも、「ここは昔の面影があるから」好きな場所だと下村さんは言う。子どものころは、家の前に縁台を出して近所の子ども同士で「縁台将棋」もした。「けっこう俺、強かったんだよ(笑)」。夏の思い出だ。昔は、牛車が野菜を載せて家の前を通った。農家がやっちゃば(野菜の市場)に野菜を運んでいく。ときどき糞を落としていくのが「迷惑だった」。

千住暮らし【ストーリー1】写真7
千住暮らし【ストーリー1】写真8

この家の奥の、コンパクトで明るい台所はいつもすっきり片付いていて、ここに、1日三度、下村さんは立つ。愛妻を早くに亡くし、父を見送り、この家に戻って母と2人暮らしとなり、母がだんだん台所に立たないようになって、いつしか料理をするようになった。


坂がない千住


「料理? 好きとは言えないよ。食べなきゃいけないから仕方なく作ってるだけだよ。自分でも、うまくねえなと思って食うときもあるよ(笑)」。そう言いながら、話を聞いていると、レパートリーは豊富で、なすやさつま芋やかぼちゃなど野菜の煮物から、豚肉のしょうが焼き、カレーやけんちん汁、肉じゃがまで、ひと通りの料理は苦にならない。味付けは代々の下村家の味で「甘め」。でも血糖値は、少し高めだが正常範囲内。よく行く北千住マルイ地下の食品売り場で売られているお惣菜をのぞいてみることもある。「あ、これならできそうだな」と、真似たりする。

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週に一度、「おばさん」が料理を作りに来てくれる。おばさんというのは、家事支援のヘルパーさん。だから、おばさんが来る前に買い物に行く。行き先はほぼ、前述のマルイ。路地を抜けると近い。マルイは肉も魚も野菜も全部揃って便利だ。昔はヨーカドーにも行ったが、洋品を置かなくなってめっきり行かなくなった。「面倒くさいのは嫌なんだよ」。マルイにはユニクロもあるから、買い物がすべて1カ所で済むのが便利だし、魚と肉は「品物もいい」。昨日は、「ナメタガレイとハンバーグを買ってきて」おばさんに煮てもらった。だいたい2日分、作って行ってくれる。それ以外の日は自分で作る。食材が足りなくなったらまた、買い出しに行く。ちょっとした果物や野菜なら、徒歩3分の八百屋昇鈴やセブンイレブン足立千住4丁目店、スーパー田中などで買う。

また、歯ブラシや歯磨き粉、ティッシュやトイレットペーパー、洗剤や線香、マッチなどの雑ものは、徒歩圏内の同級生が営む旧道沿いの日用雑貨店まつもとやで買っている。


千住暮らし【ストーリー1】写真10

千住暮らし【ストーリー1】写真11

毎晩1合の晩酌


そんな話を聞いてうらやましくなった。関西に住む私の母も下村さんと同世代だが、坂の多い住宅街に暮らしているため、足腰に痛みが出始めたこのごろは、好きだった買い物に自由に行けないし、手もふるえが出ると言って得意だった料理もすっかりしなくなった。それでも、配食サービスやヘルパーさんの家事支援には抵抗がある。駅から離れた坂の住宅街は、若いときにはむしろ楽しいが、歳を重ねると、暮らしの障壁になる。食べる楽しみが減ることは、生活の楽しみが減ることにつながるのではないかと心配だ。その点、千住、もっといえば足立区には坂がない。坂がなくて店が多いから、暮らしに食が近い。

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下村さんは、毎晩6時には晩酌をはじめるという。日本酒だ。「1合以内だね。8勺(しゃく)くらいかな。ビールは腹がくちくなるから」。季節のもの、枝豆や、そら豆がで始めるとそら豆を、茹でて、チーズクラッカーなどを添えて、飲みはじめ、おかずをつまみながら、最後にごはんをひと口。つまり昨日のメインのつまみは、ナメタガレイの煮付け。食べすぎると調子が悪くなるので、酒も食事も適量をキープし、夕食後は寝るまで、お腹が空いても「間食はしない」。


冷凍ものは、スープに入れる水餃子以外は使わず、食事の外食もしない。それがずっと習慣だったから。外食は友人と飲みに行くときくらいで、お昼も、そばを茹でたり、買ってきたパンを食べたりしている。


近所に同級生や、息子が幼稚園時代の親つながりがあって、60~70歳代の頃はよく飲みに行った。中学時代の同級生で千住旭町に住む「影山とはよく飲んだ」。もうなくなった店も多いが、今あるところでは、うなぎの千寿、きたせん楓、粋心亭など。3年前に手術してからはあまり飲めなくなったので、今行くのは、星丸くん、泊舟が一番多い。家族でよく行った店は、とんかつの美乃屋(現在はキッチン美乃屋)、とんかつ島田(閉店)、天丼のいもやなど。「俺は刺身でもつまんでるんだけど、息子がとんかつ食べたりできるので」。


このほか、お客様があるとよく出前をとる。寿司は千住4丁目の栄寿司、うなぎは千住仲町のまじ満。うなぎの蒲焼は、鮒秋でもよく買った。


土手でヤンマを獲る秘技


千住で生まれ育った。旭小に通い、お昼は食べに家に帰ってきた。


近所に同級生も多い。

子どもの頃の遊び場は「名倉」だった(現在の名倉医院)。今は駐車場やマンションになっているところが、当時は空き地になっていて、仲間を率いて行って、そこでよく遊んだ。庭には池があって、周りには木々が生えていて、エビガニ(ザリガニ)を釣ったりカエルを捕まえて食べた。一度、柿を採って門の前で分けてたら、管理人の太ったおじさんに見つかって怒鳴られて、せっかく採った柿を全部置いて逃げてきた。それが今でも残念だ。


同級生の「知久」のグループは「安養院」が遊び場だった。仲が悪いのではなくて、グループが別だった。そして当時の子どもは、誰もが土手で遊んだ。当時は葦がいっぱい生えてて、沼があって魚もいて、泳いだり、ヤンマ獲りしたりした。「夕方、雌のヤンマを竿につけて飛ばすと雄が乗っかって落ちるんだよ。それをパッとつかまえる。しょっちゅうとりに行ったよ」。土手に行けばとにかく遊びに事欠かなかった。

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飼っていたウサギには土手の草や近所の佐野豆腐店(閉店)で分けてもらったおからを餌に与えた。鶏も飼っていた。でも「飼っていた鶏に、名倉の池で捕まえたエビガニの頭をやったら卵の黄身が赤くなってよ」。気味が悪くなってやめた。ウサギは大きくなったら「売っ飛ばして、野球のグローブを買った」。鶏は「自分でひねて、食っちゃった」という。子どもたちの遊びは、半径50メートルの広場や土手を中心に、お金がなくても、ゲームがなくても、無限大に広がり豊かだった。


一度、冬場に、子どもたちが集まって、土手の草に火をつけて遊んでいたら燃え広がって消えなくなり、近所の「田村さんのおばさん」が見つけて来てくれ、消してもらったことがある。「えれー怒られて、それからはもう、火はつけないよ」。大人の出番は、子どもたちの命とまちの安全に関わるところ。そして数少ない出番を通して、子どもたちの心に教訓を刻む教育をした。

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江戸を感じる1年の暮らし


近所でガキ大将同士だった「知久」さんとは年に一度、11月か12月に千住で飲んでいる。今年は、コロナがあるので休止したが、昨年は千住4丁目の市場食堂さかなやで飲んだ。社会人になったころから、ずっと毎年、飲んでいる。結婚前、20代前半のころは、よく、銭湯に入ってさっぱりしてから飲みに行った。今は千葉に住んでるから、そっちへ行こうかと言うが、千住がいいと言って千住で飲む。たわいもない話をして2人の忘年会をする。


なんとなく話の流れで、下村さんの1年の様子を聞いた。

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元旦は、近所に住む息子夫妻が来て、一緒にお稲荷さんにお酒や油揚げをお供えしてお参りするところから始まる。毎年、妹が三越のおせちを送ってくれるので、3人でそれをつつきながら「一杯やって」、その後、五丁目・大川町氷川神社にお参りする。それから年賀状を見て、整理をしながら駅伝を見るのが正月の慣習だ。お雑煮も自分で煮るし、7日には、七草粥も煮る。お汁粉は4丁目のタカラ家であんこを買ってきてしるこを作ることもある。


敷地内にある「お稲荷さん」には、2月の二の午(にのうま)の日に、絵馬を飾って祀る。千住4丁目の、江戸時代から8代続く絵馬屋さんで毎年、買う。「初午(はつうま)の日にお祀りされる家がほとんど」と絵馬屋さんにも言われるというが、まれに二の午に祀る家もあるのだそうだ。下村家ではなぜか二の午に祀るのが昔からの決まりだ。5丁目の荒木さん(成田屋)では、昔は初午にお神楽も呼んで賑やかに祀っていて、子どものころお菓子をもらいに行った。

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3月にはときどきだが、気が向いた年に雛飾りを飾る。下村家はずっと婿取り一家で、雛飾りは江戸時代のご先祖から伝わるもの。とても大きい。昔は離れに飾っていて、大正生まれのご近所の大塚さんが、子どものころよく見にきたと言っていた。近年は「友達が見たいと言って」飾り始めたということもあり、店先の上がりかまちに飾る。大きなガラスの引き戸ごしに、家の外からも見ることができる。「3年あけた(飾らなかった)から来年は飾ろうかなあ」と考えていたが、コロナがあるので延期しようと思う。

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5月の端午の節句には五月人形なども飾るが、「明治の初めくらいのものだから、大したことない」と。時間感覚がちょっと違う。


夏と冬には閻魔さま。このごろは行かないが、子どものころは閻魔開きの日に行った。


9月の月見には、昔は団子を飾ったが、今はしない。子どものころはどの家でも縁側や廊下に団子が飾られていて、竹竿の先に釘をくくりつけて、仲間と「盗みに行った」(笑)。「今みたいに遊ぶものが何もないでしょ。テレビもおもちゃもないから、ベーゴマとメンコしかないから、子どもは何でも遊びにしてたよ」。


年末には餅つきもやった。でもそれは、ずっと以前。親父の兄弟がいたころまではやっていた。臼と杵も家にあったが、使わなくなって捨ててしまった。

千住暮らし【ストーリー1】写真18

江戸の空気をまとう家に受け継がれる暮らし。江戸の暮らしも少し残り、明治大正昭和平成と重なってきた時間が確実に残り、令和ならではの暮らしもある。昔は向かいにタバコ屋、酒屋、下駄屋、すぐそばに電気屋、床屋、豆腐屋と揃っていたそうで、今は近隣にその賑やかさはないが、徒歩数分のマルイやコンビニ、八百屋に足を運びながら、野菜たっぷりの朝ごはんと、豊富なつまみで楽しむ晩酌がある日常。そしてときどき幼なじみと飲む酒。そんな下村さんの千住暮らしに触れ、何かとても穏やかな気持ちになった。

千住暮らし【ストーリー1】写真19

取材:2020年11月3日、17日

写真:伊澤直久

文 :舟橋左斗子


 

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